資格制でないことが、翻訳の質を守る

資格制でないことが、翻訳の質を守る

翻訳家になる上で、資格は不要です。

もちろん、別の投稿で触れたように、資格が不要であるということと、誰にでも簡単にできるということは、同義ではありません

資格が不要、ということで社会心理学的に不利な立場に追い込まれていると感じているのは恐らく翻訳者自身でしょう。

なぜなら、人間は職業に資格が求められるかどうかで、その職業に貴賤を付ける傾向があるからです。

つまり、翻訳家には資格が要らないために、多くの人が翻訳を甘く見る、という流れになります。

しかし、Dr. 会社員は、翻訳には資格が要らないことで質が守られているという一面がある、と思っています。


翻訳の国家資格を作った国すらある

翻訳の国家資格を作った国すらある

資格がないことで自分達の専門技術が軽視されていると感じるためか、翻訳家には資格制度を設けるべきだと声をあげている翻訳家が相当数います。

一部の国では、翻訳者団体が国を巻き込んで国家資格まで作っています。

民間の資格は、日本も含め世界中で導入されています。

確かに、資格制度を設けることで、プロフェッショナルを名乗る有象無象の人達から、消費者を守ることはある程度可能でしょう。

しかし、これは資格制度の「建前」と化しているとDr. 会社員は思っています。

たとえ「建前」だとしても、資格制度によってある程度消費者を守ることはできるのかもしれませんが。


資格制度は保身の要素が強い

資格制度は保身の要素が強い

資格制度の発足に向けた動きは通常、現職の専門家の間で始まります。

そのため資格制度には、自分達が苦労して身に着けたスペシャルな能力を、その辺の青二才に勝手に使わせないようにするための戦略、という閉鎖的な一面があります。

資格制度が本当に「消費者を守るため」という高尚な目的のみに基づいて維持されているなら、その資格は世の中に役立つ資格と言えるでしょう。

しかし、資格が関係者の既得権益を守るためのツールとなり、検定料金や専門の教育といった営利事業が入り込む割合が大きくなってくると、「消費者を守る」という言い分はただの「建前」と化します。

国家資格ともなれば、国民が収める税金までもが資格の管理に回されるわけですが、消費者を守るために使われているのか、制度を運営・維持するために雇われている人への給料に当てられているのか、よく分からなくなる場合があります。

この辺の問題は、1970年代にアメリカの社会学者Eliot Freidsonが論じています。

翻訳については、資格制度を導入することで消費者を守るよりも、既得権益の保持や業界の閉鎖性に繋がる可能性がある、とDr. 会社員は考えています。


やりたい人にはやらせてみればいい

やりたい人にはやらせてみればいい

翻訳がやりたい、翻訳には自信がある、という人がいれば、小さな案件を数件やらせてみればそれで済む話です。

「トライアル」という形式をわざわざ別途設けなくても、履歴書の内容を考慮し、実際の小規模な案件で試せば十分だと思います。

まともな作業ができる翻訳者やチェッカーが確認すれば、その志望者にポテンシャルがあるかどうか、すぐに分かります。

その方が、実際の案件と乖離した「資格試験」というバーチャルなセッティングにお金をかける必要がなくなります。

翻訳家には資格が求められないおかげで、ポテンシャルのある人がいつでも業界に参入できている、とDr. 会社員は考えています。

また、資格がないため、現役の翻訳者が今のポジションに胡坐をかくという事態にもならずに済んでいるのではないでしょうか。

もちろん、そのために翻訳業界、特に英語から日本語への翻訳では、語学検定の点数が良ければ翻訳ができると考えている人で溢れかえっていることも事実です。


まとめ

まとめ

今回の投稿では、翻訳家には資格が要らないということが、翻訳の質を守っているのでは、とDr. 会社員が考える理由を説明しました。

もちろん、資格制度を導入することによるメリットは必ずあるとは思いますが、資格さえ導入すれば良い結果に繋がる、と考えるのは短絡的だ、ということです。

資格は虚構の地位にもなり得るのです。